料理人の時間は1 どのように始まり2

10 - 料理人と仕事 / 第一章 若き料理人へ

料理人と仕事 / 第一章 若き料理人へ / 料理人の時間は1 どのように始まり2

第1段階 ものの名前をおぼえること

いちばん最初は、調理に関係する「もの」の名前を知ることです。食品や器物その他、調理場内のありとあらゆる物品の名称をおそわり、それらのあるべき場所をおぼえます。つぎには、ものを片づけるとか、必要なものを、必要量だけ、食庫に取りにいって、あるべき場所にしまう、という行為をおぼえます。一般に、ホテルの場合は、料理人として採用されても、入社当日から調理場には入りません。新入社員全体の研修期間があって、そこで、会社の指針とか社内システムを学び、さらに実地研修をする。そのホテルによってちがうと思うが、ベルボーイ、ベッドメイキング、ルームサービス、喫茶のウェイター、宴会のデシャップなどをやって、ホテルの業務の全体を学ぶ。だからいざとなれば、事務系でもサービスに出るし、たいていのことは、できるようになっています。

第2段階 使用方法の見きわめ、衛生観念

使用方法の見きわめ

ものの名前をおぼえたら、つぎは、それらの機能と効力を知り、使用方法を見きわめます。食品を例にとれば、「これがラズベリービネガー」と名前を教えられたら、それがラズベリー(木いちご)の色と香りがある酢であり、すっぱいこと、多くはオードブル用サラダにつかうこと、これくらいまでを知る。物品の、たとえば泡立器であれば、なぜ、細長いのと丸っこいのがあって、ソース用、ホイップ用と呼ぶか、また、カップであれば、モーニング用、デミタス用、通常のコーヒー用、紅茶用があり、なぜ、モーニング用はいちばん大きくて厚手であるのか──なぜなら朝は、何時聞かの断食状態のあとだから、分量を多く飲むし、厚手であれば、そのあいださめにくいから──。また、紅茶のカップは、なぜ、口がひらいた形が多く、薄手であるのか──紅茶は、色と香りを楽しむものだから、香りをより多く感じられるよう、カップの容量にくらべて、口径は広い──等々の、味覚や機能から生じる、存在理由ぐらいも知る。

理由は、理にかなっていることからでき上がるものでしょう、カップひとつにも、意義のある「ものの見かた」というのがあって、それだからこそ、おもしろいし、楽しい。たんに「これはモーニング用、これは紅茶用」と記憶するだけでは、すこし情けないですよ。「ものには、存在理由がある」ということは、はやい段階で、示されておく必要があります。というのは、これのくりかえしによって、器物にかぎらず「いかなる理由で、いかなることを行うか」という、思考パターンが、育つようにもなるからです。

衛生観念

平行しておこなうのは、食品衛生の観念です。調理場では、ゴミや汚れといった、目に見えるものを取りのぞくことは、清掃その他、日々の仕事に組みこまれている。したがって、料理人の衛生観念においては、「目に見えなくても、菌の汚染があるということ」、「食品は、腐敗へ向かうということ」、ひいては「料理人は、人の命とかかわる職業だということ」、これらが、観念の基本として、徹底されなければならない。

この観念が、食品衛生のためのすべての行為と、その継続とをささえていくし、また、ひとつのものを見て、「あるべき状態でない」という違和感に、気づかせることにもなる。たとえば、一日の終わりに、ソースの大鍋が、台のうえに出ている。さめているのに、なぜ出ているのか、おかしいと感じる。これから使うのか、または冷蔵庫に入れるのか。ともあれ、「この鍋は、どうしましょうか」とだれかに聞くことができる、そこまでの感覚が育っていることが、この段階でのぞましい。

第3段階 洗うこと

食器を洗うときは、少なくとも、ガラス器と、それ以外とに、分けて洗います。できれば、ガラス器、陶磁器(油食器と、油のないもの)、ナイフ・フォーク類、銀器に分ける。皿なら、のこりものをおとし、湯どうしして、洗剤であらい、熱湯で滅菌して、乾燥させる。ホテルでは、下がってきた食器だけを洗う場所がある。機械を入れているから、そこは調理場の担当でない。したがって、料理人が洗うのは、調理に用いた鍋と器具だけです。

洗うというのは、むずかしい。アルミニューム、ステンレス、鉄、銅、木、陶器その他、素材によって、洗剤も、洗う道具も、洗いかたもちがう。たとえば、漆(うるし)の塗り椀を、熱湯につけて、みがき粉とたわしで洗う、なんていうことはしないでしょう。漆に火が通って、色がかわるし、きずがつく。洋食では漆器を使わないが、「洗う」ということへの、考えかたと配慮は、まったくおなじです。

初心者といえども、鍋や器具を、一日中洗っているわけでないですよ。たいてい、鍋洗いの練習と、野菜洗いとを、並行しておこないます。うちでは、このナべ屋(鍋洗い)が、料理人とは別に入っているのだけど、このごろ思うのは「決まっていることは、順番にやるほうがいい」ということ。鍋を洗ってなきゃ、たとえば、クリームソースをつくったあとの鍋に、水を入れておくことまで、気がまわらない。かわくと、鍋を洗う人に手間がかかることが、わからない。また、一連のものごとの「後始末までを考えて、仕事をする」という感覚が、やはり育ちにくいし、欠如するように思います。

むかしは、野菜は少しぐらい傷んでいても、中毒にはむすびつかない、ということになっていた。しかし現在では、いかに、見ためが新鮮で、虫やゴミがなくても、雑菌の多さという、厳然たる事実がある。つまり、下洗いしてパックされたぶんだけ、きれいに見えるぶんだけ、雑菌は余分に付着している、と考えるものです。

洗うというのは、料理の、はじめとおわりにあるでしょう。野菜なら、料理をする以前の操作として、食品衛生の重要な要素を含んでいる。「目に見えない雑菌を見る」つもり、水を流すだけではなく、「洗うイコール滅菌する」という心がまえをもって、自分の手を洗うのとおなじように、洗っていく。

器具洗いは、後始末です。つまり、どうやって始末するか、いわゆる、終着点をさきに教えておくわけです。これは、当日の後始末であると同時に、翌日への前準備でもあって、器物と調理場の、クリアーな状態をつくることです。また、あとで調理を手がけるときのために、ペティナイフの研ぎかたぐらいも、この段階でやっています。

あのね、以前は「じゃがいも、やりなさい」と言えば、むきかたは下手にしろ、洗って皮むいて、もう一度ざっと洗う、ここまでは、だまっていても、だれでもやった。そのころはみんな、子供の時分に、母親のそばにくっついたりして、台所という場所で、なにが行われているか、たいがいは見て知っていた。

いまはね、泥のまま皮をむく、というのも実際に起こりえる。「あとで洗うんだから、おなじでしょう」と言うが、世相のちがいとはいえ、あまりに、ものごとを知らなすぎると思う。いまの、ごく若い年代の人は、日常をささえる事がらにも、日常の食品にも、まず無関心のようだし、また、なにもやらないで来ている。だから、調理場のなかで、日常生活の常識のようなことから、教えざるをえない場合も、往々にしてあります。

第4段階 盛りつけ、数の観念、包丁の初歩など

盛りつけ

盛りつけの実際は、たとえば、野菜の付けあわせを皿にならべる、ということだが、そこには、皿のデザインに見あったように盛りつける、ということがふくまれている。さらに、あたたかいものは、あたたかいうちにサービスされるよう、そのための手順を考えることも、ここでやる。

盛りつけには、ある人数分を一枚の皿に盛りあわせる大皿盛りと、ひとり一皿のワンポーションとがあります。大皿盛りは、一枚に六~八人がふつうで、サービス係が、持ちまわりしやすいように盛る。たとえば、三種の付けあわせが、じゃがいものブーランジェールと、人参のグラッセと、グリーンピースだとするでしょう。ほんとうは、どこに盛ってもいいが、安全なのは、サービス係の、二の腕のほうにじゃがいも、手さきのほうにグリーンピース、したがって、人参は、その中間の両サイドという方法。

というのは、サービス係は、お客の左側から、サービスするでしょう。手にもった大皿は、つねに水平とはいえないし、お客へ向けて、わずかに角度がついて、空中を移動します。わずかな角度、わずかな振動によって、グリーンピースはころがる、人参はすべる、じゃがいもは動かない、となれば、大皿のどの位置になにをおくか、これは必然的に決まってくる。やたらに盛ればいいのでなく、視覚先行でもなく、サービス係の、手ぎわを助ける意味をもった、配置の必然性があるわけです。

ひとり一皿で出すワンポーションは、美的表現の追求から盛んになって、いまは会食でも、これが主流です。以前なら、ポークソテーに野菜の付けあわせ三種、といえば、どこでもスタイルは似かよっていた。肉が手まえに横たわって、うしろに野菜が三山でしょう。いまは、肉を二枚に切って真中におき、三種の野菜を、各二等分して、六ヶ所に配置する、そして周囲から、色どりの良いソースを流して、いわば一枚の絵のように仕上げることもある。この一枚の絵の構図がちがうところに、各所が〝うちのスタイル〟をつくっているわけです。だから、いまの人たちは、大皿盛りとひとり盛り、このふたつの方法を、その調理場のスタイルと、理屈との、両方によって、おぼえることになります。

数の観念

1,000名の宴会で、揚げたじゃがいも──ポム・ノワゼットとかポン・ヌフが──ひとり3個あてとすると、全部で3,000個いるでしょう。むやみやたらに揚げていて、「大丈夫です。山ほどありますから…」また50名の会食で、じゃがいもは50個ある。ところが人参は40個。「おい、人参どうした?」「はい、もうおしまいです」ばかみたいなことだけど、現実に起こりえるんだ、かぞえていないとね。

子供のころ、先輩たちに言われた。「キザワ、テーノーホーで勘定しろよ」10個ずつ10山あれば100でしょう、台にあわせて、ひと山いくつで一列は何山か、何列あるから計いくつ。これが低能法です。山ほどあるのを1、2、3・・・164、165なんてやっていたのでは、「おいキザワー!」「ハイッ!」これで忘れてしまって、また1、2、3、4・・・。低能法でやれば、途中で何回よばれても、100は100です。これが、仕事における数の観念というもので、たいへん重要なことのひとつです。

長じてブチャー(切り出し)にでもなれば、肉が10キロあって、100人分をとる。はしから一枚ずつ切って、秤にのせて「これは少し多い、これは足りない」とやるか、10キロを半分にして5キロ、さらに五等分して1キロ、これを半分にして、500グラムのなかで五枚をとるか。こういう割りふりの感覚も、数の観念と同列にあるものです。低能法などは、その名のとおり、言えばだれでもできる。しかし言わなくても、最初からやれる人もいる。職場全体は、だまってこれを見ている。ごく些細なことに思えるだろうが、調理以外の、その人の頭のなかを、心のはたらきを、全体はウァッチしている。

包丁の初歩

レタスをちぎる、エストラゴンの葉をむしる、こういうのは、野菜洗いのどこかでやります。包丁(ナイフ)を手にする最初の仕事は、パセリのみじん切りとか、いもの皮むきでしょう。以前は、ポム・フォンダントという名前で出すイモなら「面をいくつにむきなさい」としたが、いまは全般的に、そこまでむずかしくは言わない。ここでやるのは、ナイフにたいする注意とか、意識というものです。

ナイフの運行の速度と、切面のなめらかさ、その両方のために、ナイフを研ぐ必要がある。ナイフが切れないと、かえって手を切ることが多い。手を切るというのは、切るべくして切るのであって、かならずしもナイフが切れるからではないと思う。だれしも最初は、調理場の備えつけのペティナイフを使う。そのうちに、備えつけのナイフでも、やりやすいのと、やりにくいのをみつけるようになる。そうなると自分のナイフをもつ時期です。個性とか手くせによって、ナイフはちがってくるから、人のナイフでは、仕事がうまくいかない。これは自然にそうなってきます。

以上の、ものの名前と、効用をおぼえること、前準備と後始末として、洗うこと、その調理場での、つねなる〝注意の状態〟を知ること、これが、料理人の初心者に共通する、入門したての事がらかと思う。

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