料理人の必須条件4 つくるものへの愛情

8 - 料理人と仕事 / 第一章 若き料理人へ

料理人と仕事 / 第一章 若き料理人へ / 料理人の必須条件4 つくるものへの愛情

料理人のプラス・アルファ

健康なからだと、精神の統括力と、努力による職業上の勉学。この三つがそろったら、なんの職業に就いても大成する、こう考えて当然でしょう。これらは、人間が、職業によって生活をいとなむ場合に、共通する条件です。職種の如何にかかわらず、仕事をする人間にもとめられる基本条件は、おのずから、限定されるものだ。

だから料理人といえども、職能をとりはらって、その人間本来のすがたを見たとき、そこには「仕事をする人間」としての、よりよく仕事をするための基礎要素、すなわち必須条件が、かならず含まれていなければならない。

いかなる職業人も、仕事をする人間に共通する基本条件と、さらに、職種のプラス・アルファの部分で成り立っている。基本条件に、このアルファが加わることで、はじめて「仕事をする人間」から、それぞれの職種の、たとえば「料理人」へおきかわると考えると、料理人像の概略というものが、出てくるのではないだろうか。

このアルファがなにか、人によって、考えはちがうかもしれない。ただ、多少の振幅はあっても、その職業と、人間の資質との関係のなかに、あるものでしょう。料理人は、その人間のもつ資質──素質の適性──が、「料理人であるかどうか」を決めるのであって、たとえば、英文タイプのようにね、一級の試験に合格したから一級、休まずに出席したから修了というような、他動的に、どんどん生産されるものではない。

「自分は、料理人として、まっとうできる資質をもっているか?」こう問いかけるときの、その資質がアルファでしょう。言いかえれば、その職業にたいする、理解力や読解力をきめるもの、ぼくはこのアルファを、「つくるものへの愛情」という言葉で解釈している。

料理というものを、「あるひとつの名前のもとに、材料をあつめて、かくかくしかじか、混合なり加工すれば、その名前の料理が、かならずでき上がるものだ」という概念にもとづいてつくろうとすると、そのとおりにはならないことが多い。つまり「カンタンに考えると、しくじるよ」というわけです。

いろいろの素材は、煮れば、たしかに食べられる。食べられることと、味とは別です。味にしても「これが最高の味だ」となるには、鍋のなかに、素材と調味料が、もれなくそろっているだけでは足りない。その状況に応じて、材料が、ふーっとうまい状態で入っていったか、調和したか、混合されたか、味つけされたか、そう問いただす五感が必要であり、そういう五感の働かせかたが、ぼくの考える「愛情」の、原点というものだ。

この愛情がなければ、「言われたとおりに、やりました」「配合どおりです」と言ったって、たしかに煮えている、たしかに混ざっているかもしれないけれど、それは、その料理の標準モデル、本来のあるべき姿とは、見ためもなかみも、まるっきりちがう、ということが起こりえる。

この愛情は、単独では存在しない。ものを、よく知らないと、できないことのひとつであって、知識や理論その他に裏打ちされて、はじめて生きるものです。

材料をそろえるときには、材料の状態へ、目をとどかせる。冬であれば、肉には脂肪が多いし、野菜の質はやわらかい。おなじカブであっても、旬のカブは、かたちどおりにすぐ煮えるが、時期はずれのカブは、皮の下の筋が多くて、かたいし、ながく煮ると、中だけが煮くずれる。外見がカブのかたちをしているから、「でき上がりもおなじだ」とはかぎらない。

牛フィレであれば、頭と真中と尾のほうでは肉質がことなる。だからフィレ一本を、ステーキ用に、おなじ目方にカットして焼くと、頭のほうは、脂肪が少なく繊維質であるから、収縮して小さくなる。皿に並べたところで、「この肉だけ、どうしてこんなに小さく切ったんだ?」ときくと、答えは決まっていて、「いいえ、もとの目方はおなじです」目方がおなじという理由が、製品もまたおなじ、とはつながらない。

牛フィレの頭と尾はちぢむから、真中よりも目方を多くする。すなわち、厚くなりますよね、そこで、頭なら頭の部分だけをあつめて、さきに焼きはじめ、そのあとで真中を焼く。これで、見ためのボリウムは、同程度になるし、時間差をつけることで、全部が一緒に焼き上がる。

ここに、ものごとの本質を知る意味がある。フィレならフィレについての知識があって、それにもとづく、考えかたと方法論があって、それを実践する手がある。これではじめて、フィレにたいする愛情、といえるものになる。

中華そばでも、具を入れたくずをのせるのがあるでしょう、いわゆるあんかけ。肉も野菜もスープもくずも、全部を混ぜて煮れば、でき上がるものでない。くずは、火と水の加減によっては、濁ったり、かたまりができたりする。素材にたいする知識があって、それぞれの性状にもとづく、順を追う操作があって、火の調節があって、これらの総合が、適正な完成品をつくり出すわけです。

ひとことで言えば、面倒くさがらないこと。しかし、それなりの理由がある操作でもって、ただ単に、「一生懸命やればいい」というのとは、根本的に意味がちがう。たんなる知識、たんなる一生懸命、これらは断片であって、総体をあらわすには、やはり、愛情という言葉を当てはめるほか、ないように思います。

そういう料理人の愛情も、基本的には、からだと心にささえられるものだ。精神力がないと、何ごとによらず、つい「まあこれでいいや」となる。おなじ「やる」にしても、「面倒くさいけど、やる」のでなく、「こうしなければダメなんだ」と、知識と理論に、もとづくルールに、自己をのせて、そのとおり、やり切るだけの、体力と精神力が要る。

だから、健康な身体と、精神の総括力と、勉学による知識、これらがそろったときに、料理人のアルファ「つくるものへの愛情」は、あるべき姿の意味をもつ。これら四つの要素は、あらわれるまでの順位はあるが、いったん正しいかたちであらわれてしまうと、そのあとに順位はつけられない。

たとえば、畑に、四粒の種子をまくとするでしょう。順番に芽が出る。それが大きくても小さくても、四つが出そろうことに、この場合の意味があるわけで、三つが育っているのに、一粒はいつまでたっても芽が出ない、これでは困るということです。

つまり、四つの要素があらわれた時点を、「料理人の必須条件を満たしている」とします。これがトレーニング期間の、どこで起こるか、それは人によってちがう。あとは四つの要素が相関々係に入って、おたがいを育てあい、総合的なレベルを、上げていく。中堅といえども、伸びぐあいがバランスわるいこともあるし、芽の出ない一粒をかかえている人もいます。

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