料理人の必須条件3 職業上の勉学1

6 - 料理人と仕事 / 第一章 若き料理人へ

料理人と仕事 / 第一章 若き料理人へ / 料理人の必須条件3 職業上の勉学1

料理人は、そのはじめから終わりまで、健全な心身の持ちぬしであるべきです。健康なからだと健全な精神、これに加えるのは、いまの世の中を見ることで考えられる、料理界における学力の問題でしょう。これは、料理人としての「学ぶ力」であって、過去の、学校の成績とは別です。

この学力には、ふたつのタイプがあるように思う。ひとつは、直接体験とでも言うか、料理人が料理人になる過程をたすけ、料理人になったときには、基本能力となるもの。もうひとつは、間接体験、つまり、純然たる〝勉強〟で、料理人になったうえで、その能力にプラスされるもの。たとえばマネージメントや語学などです。

料理人の知識と幅

料理人が、どうしても持たねばならぬもの、それは〝食品の知識〟でしょう。調理場のなかにあるものを「これはなにか」と判別するのは、その初歩。つづいて、それの〝本質の味〟を、どこまでつかまえられるか、ということです。

たとえば、二つのものを複合させようとするとき、
「これは、こういう味」
「こっちは、こういう味」
「組み合わせると、こういう味になるはずだ」
「そのときの、マイナス面は、これだろうから」
「それをカバーするためには、こうしよう」
これが、料理人の食品知識の基本です。

もうひとつは、料理を教える側と、受けとる側との〝科学的な関係〟。一時代まえの調理場では、「これはこうする」「これはこれくらい」と、経験を伝え、勘を育てるのが、仕事を教えることの主体だった。

現代では、調理場内の多くの事がらが、各分野の学問の力を借りて、科学的──化学的・物理的──に研究され、解明されている。したがって、本など、いくらでもあります。だから、教える側は「これはこうする」に加えて「なぜ、こうするのか」と理由を言う必要がある。また、若い人は、言われたとおりにやる義務があるのだから、理由を問う権利もあるでしょう。ひとつの事がらに、その裏づけを教えられた者は、漠然とではなしに、理論をもとめて、ものごとを見る目をやしなわれる。

たとえば、ひとつのソースにしても、一人前と大人数とでは、つくる方法がちがうものがある。生クリームを入れてつなぐ甘酸ソースなど、一人前なら、泡立て器で混ぜながら、パッと煮つめて、パッと出せる。これが大人数なら、いくら大きい鍋をつかっても、いくら火を強めても、おなじ方法では、ムリです。延々と煮つめたら、たいがい、分離するだけ。だから、ベースと、生クリームとをべつべつに煮つめておいて、それを最後に混合する、という方法を安全とする。

なぜかと言えば、容量にたいする、表面積の割合がちがうから、水分の蒸発量もちがう、ということです。このように、既成事実から派生したものを、理由をともなった方法論で伝えるときに、はじめて「説明する」「説明される」といいます。ただし、説明されなくても、自分で探すことはできるし、理論というのは、応用が効くから、はやいうちに、たくさん持っているほうがいいです。

もうひとつは〝常識問題〟。

料理人は「人間の食べるものをつくる人間」でしょう、人間を切り離して考えることはできない。だから、人間と、人間の生活に関連する、すべての事がらを対象として、その標準ライン、いわゆる常識的感覚を、身のうちに組みこむ必要はあります。つまり、新聞を毎日読むことも要るし、食品流通や、素材の派生状況や、価格や、新しい素材や、中毒といった情報を得ることも要る。経営学も、算術も、栄養学・医学・心理学も役立つし、また〝新しいもの〟を知る必要もある。

そればかりでなく、極端な話、法事のあとの身内の会食だと知りつつ、殻つきの伊勢海老を出したり、レアまがいのステーキを出したり、そして「上ものだから、大丈夫です」「うまければ、いいんじゃないですか」と、料理人の側が率先して考えるとしたら、やはり「足りない」と考えざるをえないでしょう。

これらは、思いついた順序の、ほんの一例だけど、どれも、上に立ったときに始める勉学ではないでしょう。料理人のみならず、職業人として生きる者には、学校へ行くよりも、もっとたいへんな、職業的ノルマが課せられている。ノルマのなかみは、時代によって、環境によって、人によって異なるだろうが、そのノルマをこなしていかなければ、真の職業人としての完成に至らないという点では、つねにおなじです。

これら職業上の勉学は、仕事を、よりよく達成するためのものであっても、職場時間内には、おこなえない性質のものだ。鍋をかきまわしながら、片手で本は読めません。つまり、私的な時間を割いておこなう、個人の努力による勉強です。勉学も努力も、白紙からは生まれない。なにかの刺激を受けて、好奇心をそそられることで始まる。そして、料理人といわず、つねに「?」があって、それを解こうとする「なぜ」「なぜ」「なぜ」という理屈が、努力の道をつなげていく。

しかし〝努力〟というのは、他人がつかう言葉ですよ。本人は「ただ夢中でやっている」のだと思う。本当に努力している人は、それを言わない。努力は、「自分は努力している」と思わない状態のなかにあって、ふりかえったときにしか見えない…、そういうものではないだろうか。

疑問をもつということが、いかに大切か、気づかない人もある。疑問をもたなくなると、〝なぞる〟だけです。吸収力も努力も、おくれてしまう。たとえば若い人が、ドレッシングの材料を混ぜ合わせて、ドレッシングをつくる。「おやじさん、これでどうでしょうか」と持ってくる。味をみて、「あれを入れて、こうしなさいよ」と言う。それでも直らないときや、そこまで理解できないと思うときは、自分で出て行ってやってしまう。内部事情がどうあろうと、つくっているのは商品だから、ある一定レベルになって外に出ないと困るわけ。

だけど、これを繰り返していたのでは、いつまでたっても、その人たちは、ただ混合しただけの、材料に頼っただけの、六か七の味しか、できないことになる。十人いたら十人が頭をあつめて、「これなら大丈夫。絶対におやじをパスする」と思うものをつくり上げて、それから「おやじさん、これはどうでしょうか」と持ってくるならば、それでいい。「これが、自分のベストだ」というとき、その段階での修正は、確実におぼえるからです。

それなのに、ドレッシングならドレッシングの標準、つまり、良しとされる味覚上の原点を、自分で見きわめることを曖昧にしたまま、修正を受けることに甘んじている。これがぼくに言わせれば、吸収力と努力の足りない状態に見えるわけです。

日常のささいな出来事でも、その背景にある、重大な問題とつながることがある。料理人自身、仕事して給料をもらうことを、時間と、労働力の、切り売りのように考えてやしないか。労働を換金した、給料の高だけで、料理人が評価されると思ってやしないか。もしそうなら、それは料理人でなく、ようするに調理場内の道具のひとつです。自分で自分をたんなる道具にしている。

ぼくらのころは、やめれば食えないという金銭的事情もあったけれど、頭のひとつでもハタかれたり、向こう脛でも蹴っとばされたりしたら、「えいくそっ」と思って、たいがい一回でもって、もう忘れなかった。一を聞かれてわからなければ、つぎは三を答えようと思って、やるわけです。

こういう、仕事上の意地というか自負心というか、これは全般では薄れてきた……と言いたいところだが、この比較はね、人みな事情を背負っていた時代とくらべてだから、実際には、なんとも言えない。いまの若い人でも、ある人にはあるし、それに、地位が上がることで、あらわれることも多い。だから、もともと個人差であって、社会的風潮は、二の次だろうと思う。

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